最後の晩餐と聞いたら、みなさん何を思い浮かべるでしょうか?
イエスキリストの最後の晩餐を思い浮かべる方もおられるでしょう。
私も新聞の連載などで有名人が「自分自身の最後の晩餐は、どんなものがいいか?」という内容のコラムを読んだ記憶があります。
個人的には「最後の晩餐」と聞くと、自分自身が直面した体験を思い出して、こころが痛みます。
なぜなら、私は「最後の晩餐を食べている途中なのに、その方のお膳を下げてしまった」ことがあるからです。
詳細は次のようなことです。
ある日、交通事故で四肢麻痺となったKさんが入院してこられました。
四肢麻痺なので、ご自身では手も動かせず、食事の介助が必要な方でした。
普段は奥さんが介助にあたっておられたのですが、その日は急用ができて、看護助手の私が朝食の介助を担当しました。
当時勤務していた病院では、看護助手が複数の患者さんに食事の介助をする必要があって、ひとりの患者さんにかかりきりになれない状況でした。
そんな中、Kさんは「うまい。うまい。」と本当においしそうに食事を召し上がっておられました。
しかし、介助する私はあせりにあせっていました。
ずっとKさんを介助していたため、ほかの患者さんが食事をできていなかったのです。目の前にお膳があるのに、何も手を付けておられず、食事の介助を待っておられる状況になっていました。
心中のあせりをどうにかやり過ごしながら、ようやく六割ほど食べ終えたKさんに対して私は、「では、Kさん、今日はこの辺で失礼しますね」となかば強引にお膳を下げたのです。その時のKさんの言葉が、耳に突き刺さりました。「おまえってやつは・・・!」
私はKさんの慟哭ともいえるそのつぶやきの悲しさに、圧倒されました。
でも、ほかの患者さんの介助もしていかなくてはなりません。「申し訳ない!」という想いを胸に動揺しながらなんとかほかの方の食事介助をしたのを覚えています。
その日の夜、Kさんは高熱を出し、ICUに運ばれ、そのまま回復することなく1週間後に亡き人となりました。
結果的にKさんにとってその日の朝食が最後の晩餐となったのです。
その最後の晩餐を、食事途中で下膳した、私でした・・・。
悔やんでも悔やみきれない体験です。やり直すことはできないのです。
この体験は私に、「次があるとは限らない」という事実を突きつけました。
その体験以来、私はその時できることにベストを尽くして取り組むように心がけています。